第3章「こぼれた記憶」
カウンセリングルームに入った瞬間、さくらは少し落ち着かない気分だった。
心がどこか、ざわざわしている。けれど、それが何なのかは分からなかった。
いつもの席に座り、ふぅっと息を吐く。
カウンセラーが静かに席に着くと、部屋にゆるやかな空気が流れた。
「こんにちは、さくらさん。前回のあと、どんなことがありましたか?」
「うーん……何があったってわけじゃないんですけど……最近、気持ちが不安定で。急に寂しくなったり、なぜか胸が詰まったり……。」
そう言って、さくらは手元を見つめた。指を組んだりほどいたり、小さな動きで不安を隠すように。
「それは、何かのきっかけがあったと思いますか?」
さくらは少し考えた後、首を振った。
「ただ…時々、昔のことが、ぼやっと浮かんでくるんです。映像みたいに。夢のような感じで。」
「たとえば、どんな場面ですか?」
少しの沈黙のあと、さくらは静かに話しはじめた。
「……夕方の、台所です。窓からオレンジ色の光が差し込んでて、私は…小さかった。多分、小学校の低学年くらい。母が、後ろに立っていて……何かを言ったら、テーブルを“バンッ”って……すごい音でした。」
その瞬間、さくらの指の動きが止まった。
胸の奥から、何かが浮かび上がる。
「そのあと、何も言えなくなって……。
母の顔がすごく怖くて、動けなかった。
怒られるのが怖くて……ずっと黙ってました。」
声がだんだん震えていく。
「それから……何か言いたくなっても、声に出すのが怖くて……。
ずっと“いい子”でいなきゃって、自分を押し込めてたのかも……。」
さくらの目に、涙がにじみはじめる。
彼女は慌てて手で拭ったが、涙は止まらなかった。
カウンセラーは何も言わず、ただ優しく彼女の存在を受け止めていた。
その沈黙は、否定でも同情でもなく、「ここにいていいよ」と語りかけるようだった。
「……私、怒ってたのかもしれません。
母のこと、好きだったけど……どうして私の気持ちを、見てくれなかったんだろうって。」
はじめて口にした「怒り」。
それは、彼女がずっと「感じてはいけない」と思っていた感情だった。
「でも、怒っていいんだよ」
そうカウンセラーが言う代わりに、
さくらの中にある「怒り」の存在を、そのままそこに置いてくれた。
受け止めようとも、取り除こうともせずに。
しばらくして、さくらは静かに深呼吸した。
「なんか……ちょっと、胸が軽くなった気がします。泣いたからかな。」
「もしかすると、さくらさんがずっと胸にしまっていたものが、今、やっと言葉になったのかもしれませんね。」
「……そうかも。」
自分の口からこぼれた言葉に、さくら自身が少し驚いていた。
「怒ってたのかも」――
その言葉が、確かに彼女の心をノックした。
それが癒しの“ゴール”ではない。
でも、それは間違いなく――
“はじまり”だった。
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